【翻訳】高度情報化時代における、マジック記事の利用法
2018年9月22日 翻訳 Channel Fireballより、Brian DeMarsの記事です。原文はhttps://www.channelfireball.com/articles/the-deck-you-read-about-and-the-deck-you-played/。みんな、CFBで買い物しましょうね(僕もします)。
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今が旬のデッキについてトッププロが記事を書き、きみはそれを読む。さらにそのデッキを実際に回している動画をチェックし、14世紀の修行僧がごとくに手で書き写したサイドボードガイドをお供に、火曜日の夜に地元の店でテストしてみる。そして待ちに待った土曜日には、4-3という結果がきみを待ち受けているという寸法だ。ご冥福をお祈りする。
今回のお題はギャップだ。ライターがデッキテクを投稿するタイミングと、読者がそれをRPTQやらGPに持ち込むタイミングのズレの話だ。ベストな75枚を準備して戦いに臨むためには、記事をどういうふうに利用すべきなんだろうな?
マジック界隈には、記事を読むことでライバルに差をつけられるという神話が伝えられている。たしかに、記事を読んでいないやつに比べればそうだろうな。だがきみと同じレベルでマジックをプレイしている(たとえば、PT参加を目標としている)ライバルたちの95%までは間違いなく、同じ記事に目を通している。そうだとすれば、記事を読むだけで差がつく道理なんてあるわけもない。ネットで誰もが読むことができる記事の効能は、記事を読むことさえない大勢から抜け出す手助けにはなるが、逆に言えばその程度なのさ。
おっと、ディスばっかりで読者をがっかりさせちまったかな。安心してくれ、ここからはちゃんと有益なことを書くつもりだ。すなわち、それじゃあ記事から実際に何を得るのか? と、その方法についてだ。
さて、トーナメントへの準備の一環としてマジックの記事を読み漁ることは、『白鯨』が課題図書になっている文学講義に出席することに似ている。つまるところ、『白鯨』を読み通すのはあくまで前提条件であり、最終試験でクラスのトップに立つために十分とは言えない。もっとも、あの長い本を読むような真似をしたがらないやつや、ウィキペディアをざっと眺めて済ませるやつよりはいい成績を取れることは間違いないがね。そんな連中は落第が半ば決定づけられているわけで、"読む"だけで明確に成績に差をつけられるのは、せいぜいがそのレベルの相手にだけだ。"優"を取るためには、テキストに基づいて独自研究を行うことが不可欠となる。先行研究に目を通し、『白鯨』が成立するための文化的土壌や、後の作品に与えた影響なんかを考察してみたりな。
わざわざ『白鯨』を引き合いに出したのは理由がある。『白鯨』とマジックのデッキには共通点──つまり、どちらも途方もないほどの期間、何度も議論や研究の対象になってきたという点──がある。新しい視点やアプローチを見つけ出す、その方法を考えるだけで頭がおかしくなってしまいそうなほどに幾度となく。とあるデッキについてどれだけ理解できているかは論文や試験ではなく、週末の大会にレジストするデッキとプレイで試される、という点は異なるがね。
直近10年の競技マジックで一番変化したものはなにか? と問われれば、個人的には「平均的なプレイヤーが集められる情報の量だ」と応えたい。競技の場で勝ち残ることは年々難しくなってきている。どのプレイヤーも積極的に情報を仕入れ、週ごとにデッキをアップデートし、周到に準備してくるようになった。簡単には出し抜けない。
マジックの記事について考え直すきっかけになったのは、数年前に友人のカイル(訳註──Kyle Boggemes。PTファイナリストであり、先日もリミテッドGPを準優勝していた強豪プレイヤー)と交わした会話だった。ハイライトはこうだ──カイル:「ブライアン、もっと記事を読んだほうがいいぜ」俺:「あまり有意義とも思えんがなあ」 正直、コントロールミラーで除去をサイドアウトする理由や『電解』でニコイチを取れる親和の小型クリーチャーを熱く語る記事に飽き飽きしていた頃だった。
俺:「記事を10本読む時間で、デッキリストを50個は見比べられるだろ。そっちのほうがよっぽど勉強になる」カイルがこれに反論した言葉こそが、俺の考え方を変えたものだ。
カイル:「記事を読むのは自分の勉強のためじゃあない。次の週末、対戦相手がどんなデッキを使ってきて、どうサイドボードしてくるかを知っておくためだよ」
もしも、「記事を読んで自分のデッキやサイドプラン、テクをアップデートする」ことが"その他大勢"から抜け出すための手段に過ぎないとすれば、次のステップは「記事から得られる知識を前提に次の週末相対することになるであろう対戦相手の手の内を推測し、それに適応する」ことだろう。
実例を挙げよう。GPデトロイトで俺はジェスカイコンを使ったが、トロンとKCIに対するサイドプランでチームメイトと議論があった。前の週、サイドに『石のような静寂』を取っていないリストが勝っていた。青白コンがそもそも親和にガン有利である。かてて加えて、静寂は通常の親和はともかく、最近流行りの鱗親和に対してはそこまで劇的とは言えない。また、静寂を別のヘイトカード──『儀礼的拒否』、のような──に差し替えることは、トロンやKCIが山のようにサイドインしてくるであろう『自然の要求』を無駄牌に変えてくれる。
多くの記事で、青白コンが『自然の要求』を躱すヘイトカードを選択したことは称賛されていた。また、トロンもそれに適合すべく『スラーグ牙』のようなカードを(置き物へのヘイトの代わりに)サイドに取るべきだ、という議論もあちこちで起こっていた。
そんな記事を6~7本読んだあと、サイドプランは自ずから決まっていた。記事のアドバイスに従って『自然の要求』を減らしてくるであろうトロンやKCIの(平均的な)プレイヤーに対して置き物を山程サイドインし、それを『否認』で守るのだ。シークレットテクは記事として世に出された瞬間からシークレットではない。石のような静寂をサイドに取らないという選択は前週の大会では相手の度肝を抜いたかもしれないが、大会が終わりリストが出回って記事が書かれてしまったあとでは、メジャーなプランの1つ以上のものではない。大事なのは記事の情報に基づいて、新しい指針を得ることだ。
記事も、そこに載っているリストも無価値だ、などと言うつもりはない。立ち位置が良さそうなアーキタイプの、よく練られたリストを探してくることは今日の競技マジックで勝ちたいなら極めて重要である。GPを勝ち残ってPTの参加権利を得るプレイヤーも、プロが直前の火曜日に記事をものした75枚をそのまま持ち込んでその栄冠を手にしていることがままある。だが勝ち続けているプレイヤーが使っているリストはどうか? もしくはGPのトップ8入賞リストを眺めてもらってもいいが、そこで勝っているリストは完全に定番の75枚だろうか。それとも使用者がひと手間加えているか? たぶん後者のほうが多いだろう、それこそが成功の秘訣だ、と俺は言いたい。
記事という形で衆目の下に晒されることでデッキやテクがよりブラッシュアップされるという側面ももちろんあるんだが、それよりも知られてしまうというデメリットのほうが大きい。少し趣の異なる『観察者効果』(訳註──観察するという行為が観察される対象に影響を与えてしまう、という理論)とでも言おうか、とにかく一度記事になってしまうことの影響というのは果てしなく大きい。記事にデッキリストを載せてそれに大きな反響が返ってくるとき、あるいはトーナメントを席巻するデッキが登場するとき、その成功の大きな要因は知られていないことのアドバンテージだ。相手が何をしてくるか、ケアすべきカードは何か、どんなサイドプランで来るか──そのいずれにも答えが得られないのでは五里霧中と言うべきだろう。そして、その反対──PTのトップ8という華々しいデビューを飾ったデッキが、みんなが一斉に情報共有を行ったあとで鳴かず飛ばずのまま生涯を終える、ってのはよくある話だ。
俺がデッキビルディングについて意味のあることを学んだのは、ヴィンテージに力を注いでいたころだった。もう何年も前の話になるが、そのころはヴィンテージの記事などほぼなく、情報共有の場はもっぱらフォーラムや掲示板だった。Tier1アーキのそれぞれに、理想の75枚を探し求める集団がいた。けちコンの75枚、精神隷属機コンの75枚、まるで数式を証明するみたいに「これこそがパーフェクトな75枚です」って答えがいずれ得られる、と思ってるみたいにな。
マジックが素晴らしいのは常に変化するゲームであるからだ。今週の大会ではシークレットだったテクも、次週の大会では手垢が付いている。2週間後ともなれば、誰もがそれに対するカウンタープランを準備してくることだろう。「完璧な75枚」なんてお笑い草だ。記事にも同じことが言える。そこに書かれている内容はあくまで書かれた時点での最高の構築やデッキ選択、プランニングであって誰もがそれを知ってしまえば価値は減少する。
ネットデッキングを批判したいわけじゃない。現実的に、ネットに転がっているデッキを拾いあげることは、今日の競技マジックの根底をなしている。完コピじゃない75枚を持ち込むプレイヤーの方が少ないだろう。肝に銘じておかなければならないのは、火曜日に世界最高のプロが太鼓判を押した構築も、土曜日には平均点以下の代物に成り果てているかもしれないということだ。記事の内容に問題があるわけではなく単純に、数日間という時間はプレイヤーたちが新しいメタゲームに適合するのに十分すぎるのだ。
その75枚はすでに知られている。熱心なプレイヤーはその75枚に対し入念なプランを用意している。そんなに練習熱心じゃないプレイヤーも、その75枚に対してくらいは対策してきている。ベストデッキに勝てるデッキというだけで、他との相性差をあまり考慮せずそれを選択してくるプレイヤーは一定数いる。
同時に、クリエイティブなプレイヤー、チューナーにとってこれは大きなチャンスでもある。75枚完コピが当たり前の時代、本当にライバルに差をつけられるのは独自のテクの発見であり、おなじみのプランへの対策であり、コピーデッカーのほうが独自構築を持ち込むプレイヤーよりも遥かに多いということへの知悉なのだから。次のレベルへの第一歩を踏み出すってのは、なにも銀河系から飛び出して誰も目にしたことがないものを見つけてくることじゃない。週末にプレイしようと考えているフォーマットについて今週書かれた記事を読むこと、そうして得られた知識からトレンドを予測してそれに適応していくことなんだ。
要するに、記事を読んでリストをただコピーするんじゃなくて、そのリストが以前のものと比べてどう変わっているか、そうした理由はなぜか、メタの移り変わりかたが似たような時期はなかったか、まで考えてみることが重要なわけだ。情報収集によって少し先のトレンドを予測しそれに適応していく技術ってのが、現代マジックのトーナメントシーンでは一番求められているんじゃないか?
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以上です。コピーデッキの是非はときおりSNSなんかでも議論になったりしますが、マジックくらい相手に干渉する手段が豊富なゲームでは相応のリスクある選択ですし批判されるべきではないのかなーと思います。個人的にはデッキを考えるのが好きなので自分で考える派ですが、エターナルなんかはプールが広大すぎるので叩き台はよく拾ってきます。
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今が旬のデッキについてトッププロが記事を書き、きみはそれを読む。さらにそのデッキを実際に回している動画をチェックし、14世紀の修行僧がごとくに手で書き写したサイドボードガイドをお供に、火曜日の夜に地元の店でテストしてみる。そして待ちに待った土曜日には、4-3という結果がきみを待ち受けているという寸法だ。ご冥福をお祈りする。
今回のお題はギャップだ。ライターがデッキテクを投稿するタイミングと、読者がそれをRPTQやらGPに持ち込むタイミングのズレの話だ。ベストな75枚を準備して戦いに臨むためには、記事をどういうふうに利用すべきなんだろうな?
マジック界隈には、記事を読むことでライバルに差をつけられるという神話が伝えられている。たしかに、記事を読んでいないやつに比べればそうだろうな。だがきみと同じレベルでマジックをプレイしている(たとえば、PT参加を目標としている)ライバルたちの95%までは間違いなく、同じ記事に目を通している。そうだとすれば、記事を読むだけで差がつく道理なんてあるわけもない。ネットで誰もが読むことができる記事の効能は、記事を読むことさえない大勢から抜け出す手助けにはなるが、逆に言えばその程度なのさ。
おっと、ディスばっかりで読者をがっかりさせちまったかな。安心してくれ、ここからはちゃんと有益なことを書くつもりだ。すなわち、それじゃあ記事から実際に何を得るのか? と、その方法についてだ。
さて、トーナメントへの準備の一環としてマジックの記事を読み漁ることは、『白鯨』が課題図書になっている文学講義に出席することに似ている。つまるところ、『白鯨』を読み通すのはあくまで前提条件であり、最終試験でクラスのトップに立つために十分とは言えない。もっとも、あの長い本を読むような真似をしたがらないやつや、ウィキペディアをざっと眺めて済ませるやつよりはいい成績を取れることは間違いないがね。そんな連中は落第が半ば決定づけられているわけで、"読む"だけで明確に成績に差をつけられるのは、せいぜいがそのレベルの相手にだけだ。"優"を取るためには、テキストに基づいて独自研究を行うことが不可欠となる。先行研究に目を通し、『白鯨』が成立するための文化的土壌や、後の作品に与えた影響なんかを考察してみたりな。
わざわざ『白鯨』を引き合いに出したのは理由がある。『白鯨』とマジックのデッキには共通点──つまり、どちらも途方もないほどの期間、何度も議論や研究の対象になってきたという点──がある。新しい視点やアプローチを見つけ出す、その方法を考えるだけで頭がおかしくなってしまいそうなほどに幾度となく。とあるデッキについてどれだけ理解できているかは論文や試験ではなく、週末の大会にレジストするデッキとプレイで試される、という点は異なるがね。
直近10年の競技マジックで一番変化したものはなにか? と問われれば、個人的には「平均的なプレイヤーが集められる情報の量だ」と応えたい。競技の場で勝ち残ることは年々難しくなってきている。どのプレイヤーも積極的に情報を仕入れ、週ごとにデッキをアップデートし、周到に準備してくるようになった。簡単には出し抜けない。
マジックの記事について考え直すきっかけになったのは、数年前に友人のカイル(訳註──Kyle Boggemes。PTファイナリストであり、先日もリミテッドGPを準優勝していた強豪プレイヤー)と交わした会話だった。ハイライトはこうだ──カイル:「ブライアン、もっと記事を読んだほうがいいぜ」俺:「あまり有意義とも思えんがなあ」 正直、コントロールミラーで除去をサイドアウトする理由や『電解』でニコイチを取れる親和の小型クリーチャーを熱く語る記事に飽き飽きしていた頃だった。
俺:「記事を10本読む時間で、デッキリストを50個は見比べられるだろ。そっちのほうがよっぽど勉強になる」カイルがこれに反論した言葉こそが、俺の考え方を変えたものだ。
カイル:「記事を読むのは自分の勉強のためじゃあない。次の週末、対戦相手がどんなデッキを使ってきて、どうサイドボードしてくるかを知っておくためだよ」
もしも、「記事を読んで自分のデッキやサイドプラン、テクをアップデートする」ことが"その他大勢"から抜け出すための手段に過ぎないとすれば、次のステップは「記事から得られる知識を前提に次の週末相対することになるであろう対戦相手の手の内を推測し、それに適応する」ことだろう。
実例を挙げよう。GPデトロイトで俺はジェスカイコンを使ったが、トロンとKCIに対するサイドプランでチームメイトと議論があった。前の週、サイドに『石のような静寂』を取っていないリストが勝っていた。青白コンがそもそも親和にガン有利である。かてて加えて、静寂は通常の親和はともかく、最近流行りの鱗親和に対してはそこまで劇的とは言えない。また、静寂を別のヘイトカード──『儀礼的拒否』、のような──に差し替えることは、トロンやKCIが山のようにサイドインしてくるであろう『自然の要求』を無駄牌に変えてくれる。
多くの記事で、青白コンが『自然の要求』を躱すヘイトカードを選択したことは称賛されていた。また、トロンもそれに適合すべく『スラーグ牙』のようなカードを(置き物へのヘイトの代わりに)サイドに取るべきだ、という議論もあちこちで起こっていた。
そんな記事を6~7本読んだあと、サイドプランは自ずから決まっていた。記事のアドバイスに従って『自然の要求』を減らしてくるであろうトロンやKCIの(平均的な)プレイヤーに対して置き物を山程サイドインし、それを『否認』で守るのだ。シークレットテクは記事として世に出された瞬間からシークレットではない。石のような静寂をサイドに取らないという選択は前週の大会では相手の度肝を抜いたかもしれないが、大会が終わりリストが出回って記事が書かれてしまったあとでは、メジャーなプランの1つ以上のものではない。大事なのは記事の情報に基づいて、新しい指針を得ることだ。
記事も、そこに載っているリストも無価値だ、などと言うつもりはない。立ち位置が良さそうなアーキタイプの、よく練られたリストを探してくることは今日の競技マジックで勝ちたいなら極めて重要である。GPを勝ち残ってPTの参加権利を得るプレイヤーも、プロが直前の火曜日に記事をものした75枚をそのまま持ち込んでその栄冠を手にしていることがままある。だが勝ち続けているプレイヤーが使っているリストはどうか? もしくはGPのトップ8入賞リストを眺めてもらってもいいが、そこで勝っているリストは完全に定番の75枚だろうか。それとも使用者がひと手間加えているか? たぶん後者のほうが多いだろう、それこそが成功の秘訣だ、と俺は言いたい。
記事という形で衆目の下に晒されることでデッキやテクがよりブラッシュアップされるという側面ももちろんあるんだが、それよりも知られてしまうというデメリットのほうが大きい。少し趣の異なる『観察者効果』(訳註──観察するという行為が観察される対象に影響を与えてしまう、という理論)とでも言おうか、とにかく一度記事になってしまうことの影響というのは果てしなく大きい。記事にデッキリストを載せてそれに大きな反響が返ってくるとき、あるいはトーナメントを席巻するデッキが登場するとき、その成功の大きな要因は知られていないことのアドバンテージだ。相手が何をしてくるか、ケアすべきカードは何か、どんなサイドプランで来るか──そのいずれにも答えが得られないのでは五里霧中と言うべきだろう。そして、その反対──PTのトップ8という華々しいデビューを飾ったデッキが、みんなが一斉に情報共有を行ったあとで鳴かず飛ばずのまま生涯を終える、ってのはよくある話だ。
俺がデッキビルディングについて意味のあることを学んだのは、ヴィンテージに力を注いでいたころだった。もう何年も前の話になるが、そのころはヴィンテージの記事などほぼなく、情報共有の場はもっぱらフォーラムや掲示板だった。Tier1アーキのそれぞれに、理想の75枚を探し求める集団がいた。けちコンの75枚、精神隷属機コンの75枚、まるで数式を証明するみたいに「これこそがパーフェクトな75枚です」って答えがいずれ得られる、と思ってるみたいにな。
マジックが素晴らしいのは常に変化するゲームであるからだ。今週の大会ではシークレットだったテクも、次週の大会では手垢が付いている。2週間後ともなれば、誰もがそれに対するカウンタープランを準備してくることだろう。「完璧な75枚」なんてお笑い草だ。記事にも同じことが言える。そこに書かれている内容はあくまで書かれた時点での最高の構築やデッキ選択、プランニングであって誰もがそれを知ってしまえば価値は減少する。
ネットデッキングを批判したいわけじゃない。現実的に、ネットに転がっているデッキを拾いあげることは、今日の競技マジックの根底をなしている。完コピじゃない75枚を持ち込むプレイヤーの方が少ないだろう。肝に銘じておかなければならないのは、火曜日に世界最高のプロが太鼓判を押した構築も、土曜日には平均点以下の代物に成り果てているかもしれないということだ。記事の内容に問題があるわけではなく単純に、数日間という時間はプレイヤーたちが新しいメタゲームに適合するのに十分すぎるのだ。
その75枚はすでに知られている。熱心なプレイヤーはその75枚に対し入念なプランを用意している。そんなに練習熱心じゃないプレイヤーも、その75枚に対してくらいは対策してきている。ベストデッキに勝てるデッキというだけで、他との相性差をあまり考慮せずそれを選択してくるプレイヤーは一定数いる。
同時に、クリエイティブなプレイヤー、チューナーにとってこれは大きなチャンスでもある。75枚完コピが当たり前の時代、本当にライバルに差をつけられるのは独自のテクの発見であり、おなじみのプランへの対策であり、コピーデッカーのほうが独自構築を持ち込むプレイヤーよりも遥かに多いということへの知悉なのだから。次のレベルへの第一歩を踏み出すってのは、なにも銀河系から飛び出して誰も目にしたことがないものを見つけてくることじゃない。週末にプレイしようと考えているフォーマットについて今週書かれた記事を読むこと、そうして得られた知識からトレンドを予測してそれに適応していくことなんだ。
要するに、記事を読んでリストをただコピーするんじゃなくて、そのリストが以前のものと比べてどう変わっているか、そうした理由はなぜか、メタの移り変わりかたが似たような時期はなかったか、まで考えてみることが重要なわけだ。情報収集によって少し先のトレンドを予測しそれに適応していく技術ってのが、現代マジックのトーナメントシーンでは一番求められているんじゃないか?
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以上です。コピーデッキの是非はときおりSNSなんかでも議論になったりしますが、マジックくらい相手に干渉する手段が豊富なゲームでは相応のリスクある選択ですし批判されるべきではないのかなーと思います。個人的にはデッキを考えるのが好きなので自分で考える派ですが、エターナルなんかはプールが広大すぎるので叩き台はよく拾ってきます。
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